2022年12月03日
ふたたび南三陸へ取材旅11/18-21 《後編》
そのまま石巻市の西城さんのお宅へ

震災当時6歳で被災して亡くなった春音(はるね)ちゃんとそのお友達の合同慰霊碑へ連れていってもらいました。
春音ちゃんの11年後の姿、イメージしたデッサンを見てもらいました。

最初に見てもらったデッサン

最初に描いたデッサン
最初に描いた方が春音に近いと感想を聞かせていただきました。
正解はありませんが、一回見てもらったことで軌道修正が出来ました。
当初、仕事の都合で旦那さんには観てもらえないと思っていましたが、旦那さんが帰宅して観ていただけることに、
旦那さんも前髪が無い方のデッサンの方がイメージに近いとおっしゃっていただけました。
いろいろ迷っていたので、より近づける手掛かりをいただきました。

夜にふたたびハジさんのお宅へ
ハジさんと飲めるのが嬉しい。

お刺身を用意して待っていてくれました。
お母さんの炊き込みご飯も美味しかった。
御馳走様でした。
11月20日(日)晴れときどき曇り

朝ごはんを食べるカラちゃん(盗撮)

翌朝はハジさんと歌津地区、泊浜半島の最南端の岬・歌津崎(うたつざき)、尾崎(おざき)に連れて行ってもらいました。


尾崎神社


早朝、ふたたび荒嶋神社へお参りしてから、さんさん商店街へ



南三陸合同庁舎 震災遺構として保存されています。

手を合わせて。

上山八幡宮、神楽殿へ移動して
まだ実物を観たことがないという禰宜の工藤さん夫妻にダキシメルオモイの実物を観ていただきました。
来年3月11日、神楽殿をお借りして南三陸に暮らす家族を中心にしたダキシメルオモイの展示のリハーサル


キリコのような風に揺れる麻布に描かれた家族の絵
人は額に入れた絵のように、ゆるぎなく、強く割れずにいなければと思いがちですが、
風が吹けば、ゆれる葉のように、動いたり、さざめいたりすることを自然と思えば、
動揺しても戸惑っても、震えても、それはみな自然なこと、だめなことではないように思えてきます。
キリコも、小林さんの麻布に描く母子も、ゆれることができるからこそ、見えないものが宿り、なにかを感じさせてくれるのだと思います。
(上山八幡宮 禰宜 工藤真弓さん談)


キリコの最初の形は
山伏が紙を折って、短刀で三か所切って折ったのがはじまりだそうです。
しめ縄などにある依代からはじまったそうです。
よりしろ、依り代、これが風に揺れることで、目に見えない物の存在を感じる手掛かりにしていたという



南三陸観光案内で歌津にある三島神社で担いだ神輿は、田束山(たつがねやま)の山頂にある計仙麻大島(けせまおおしま)神社に移動して
神事が完了すると聞いて、ふたたび田束山、山頂へ 今回はガスっていて南三陸の海は見えませんでした。

計仙麻大島(けせまおおしま)神社、気仙沼の語源とも読めそうな神社の名前、、、
彦火々瓊々杵命(ヒコホホノノギノミコト:一般にニニギノミコトと呼ばれ農業の神を祀っています。
手を合わせます。

そのあと、ご縁をいただいて、震災で娘さんを亡くされたご夫婦が娘さんの名前で開いた民宿に泊まらせていただきました。

未希の家から見た三陸の海

港の面して作られた巨大な防潮堤
建設の計画は、被災して間もないとき、避難所暮らしをしているときに、計画されて造られたとのこと。

高台にあるお寺、そこの本堂にまで津波が押し寄せたそうです。
その高さに驚きます。

高台にあるお墓から見た夕日



お母さんの心遣いが行き届いている手料理の数々、美味しくいただきました☆
一年一年、娘さんのところに近づいている、
娘さんに、みやげ話をたくさん持っていけるように
一日一日大切に生きていきたい
お母さんの言葉が心に響きました。
11月21日(月) 雨
早朝4時に起きて未希の家を出発、
真っ暗闇の南三陸道を宮城県名取市閖上に向かって走ります。
今年三月、閖上で津波で亡くなった公太くんとお母さんのダキシメルオモイを描かせていただいたのですが
お母さんがこちらに来ているなら会いたいと言って下さったのでスケジュール調整して、
お母さんが仕事に行く数十分だけ(この時間しか空いてなかった)

名取市閖上にある津波復興記念館「閖上の記憶」を開けていただいて、公太くんの里帰りが叶いました。
遺品の並ぶ閖上の記憶館内

公太君のお母さんで閖上で語り部をされている丹野祐子さん


閖上中学校では中学校一年生の公太君を含む14名の生徒が津波の犠牲になりました。
名取市立閖上小中学校の敷地内に移設された慰霊碑
閖上中学校に植えてあった松や石碑なども同じ敷地内に移設されました。

校舎の屋上と4階は、地元の人たちへ津波の避難場所に開放されているそうです。
小学校に通う子供たちには、震災を知らない世代の子供たちも入ってきていて
そんな子供たちを見守るように慰霊碑はそこにありました。
語り継がれていって欲しいです。
午後から埼玉県の新座市で来年の栃木県での展示打ち合わせ行くため
閖上から、常磐道を通って南下します。

途中の南相馬PAで

なみえ焼きそばが想像を軽く超える美味しさで驚きました。
また食べにきたいと思います。

福島県双葉町にある、東日本大震災・原子力災害伝承館にも足を運びました。
東日本大震災、津波の被害の地域と、原子力災害の被害のあった地域、大きく分けて二つあります。
今まで、避難した先に暮らす家族の取材ばかりで、原発事故の被害のあった浜通りには足を踏み入れていませんでした。
常磐道からはじめて一般道に足を踏み入れて、双葉駅や大熊駅周辺を少しだけ散策しました。
黄色い、この先 帰宅困難区域という看板が主要道路から枝分かれする道路に
固く閉ざされたバリケードと共に置いてあって、まだまだ復興とは名ばかりだと思い知らされました。
知らないことだらけなので、これからも学んでいきたいと思います。

渋滞にも重なって、夕方にずれ込んで新座市に到着。
浪江から富士市へ避難された堀川先生のダキシメルオモイをお持ちしました。

夜中まで走って濃霧の高速道路に危険を感じて足柄SAで仮眠をとることに

11月22日(火)
早朝、無事に渥美半島の自宅に到着いたしました。
3泊5日1778キロ、南三陸取材旅、ご縁を繋いでいただいた皆様、
ありがとうごいざいました。
来年3月11日、南三陸で展示出来るように
頑張りたいと思います。
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震災当時6歳で被災して亡くなった春音(はるね)ちゃんとそのお友達の合同慰霊碑へ連れていってもらいました。
春音ちゃんの11年後の姿、イメージしたデッサンを見てもらいました。

最初に見てもらったデッサン

最初に描いたデッサン
最初に描いた方が春音に近いと感想を聞かせていただきました。
正解はありませんが、一回見てもらったことで軌道修正が出来ました。
当初、仕事の都合で旦那さんには観てもらえないと思っていましたが、旦那さんが帰宅して観ていただけることに、
旦那さんも前髪が無い方のデッサンの方がイメージに近いとおっしゃっていただけました。
いろいろ迷っていたので、より近づける手掛かりをいただきました。

夜にふたたびハジさんのお宅へ
ハジさんと飲めるのが嬉しい。

お刺身を用意して待っていてくれました。
お母さんの炊き込みご飯も美味しかった。
御馳走様でした。
11月20日(日)晴れときどき曇り

朝ごはんを食べるカラちゃん(盗撮)

翌朝はハジさんと歌津地区、泊浜半島の最南端の岬・歌津崎(うたつざき)、尾崎(おざき)に連れて行ってもらいました。


尾崎神社


早朝、ふたたび荒嶋神社へお参りしてから、さんさん商店街へ



南三陸合同庁舎 震災遺構として保存されています。

手を合わせて。

上山八幡宮、神楽殿へ移動して
まだ実物を観たことがないという禰宜の工藤さん夫妻にダキシメルオモイの実物を観ていただきました。
来年3月11日、神楽殿をお借りして南三陸に暮らす家族を中心にしたダキシメルオモイの展示のリハーサル


キリコのような風に揺れる麻布に描かれた家族の絵
人は額に入れた絵のように、ゆるぎなく、強く割れずにいなければと思いがちですが、
風が吹けば、ゆれる葉のように、動いたり、さざめいたりすることを自然と思えば、
動揺しても戸惑っても、震えても、それはみな自然なこと、だめなことではないように思えてきます。
キリコも、小林さんの麻布に描く母子も、ゆれることができるからこそ、見えないものが宿り、なにかを感じさせてくれるのだと思います。
(上山八幡宮 禰宜 工藤真弓さん談)


キリコの最初の形は
山伏が紙を折って、短刀で三か所切って折ったのがはじまりだそうです。
しめ縄などにある依代からはじまったそうです。
よりしろ、依り代、これが風に揺れることで、目に見えない物の存在を感じる手掛かりにしていたという



南三陸観光案内で歌津にある三島神社で担いだ神輿は、田束山(たつがねやま)の山頂にある計仙麻大島(けせまおおしま)神社に移動して
神事が完了すると聞いて、ふたたび田束山、山頂へ 今回はガスっていて南三陸の海は見えませんでした。

計仙麻大島(けせまおおしま)神社、気仙沼の語源とも読めそうな神社の名前、、、
彦火々瓊々杵命(ヒコホホノノギノミコト:一般にニニギノミコトと呼ばれ農業の神を祀っています。
手を合わせます。

そのあと、ご縁をいただいて、震災で娘さんを亡くされたご夫婦が娘さんの名前で開いた民宿に泊まらせていただきました。

未希の家から見た三陸の海

港の面して作られた巨大な防潮堤
建設の計画は、被災して間もないとき、避難所暮らしをしているときに、計画されて造られたとのこと。

高台にあるお寺、そこの本堂にまで津波が押し寄せたそうです。
その高さに驚きます。

高台にあるお墓から見た夕日



お母さんの心遣いが行き届いている手料理の数々、美味しくいただきました☆
一年一年、娘さんのところに近づいている、
娘さんに、みやげ話をたくさん持っていけるように
一日一日大切に生きていきたい
お母さんの言葉が心に響きました。
11月21日(月) 雨
早朝4時に起きて未希の家を出発、
真っ暗闇の南三陸道を宮城県名取市閖上に向かって走ります。
今年三月、閖上で津波で亡くなった公太くんとお母さんのダキシメルオモイを描かせていただいたのですが
お母さんがこちらに来ているなら会いたいと言って下さったのでスケジュール調整して、
お母さんが仕事に行く数十分だけ(この時間しか空いてなかった)

名取市閖上にある津波復興記念館「閖上の記憶」を開けていただいて、公太くんの里帰りが叶いました。
遺品の並ぶ閖上の記憶館内

公太君のお母さんで閖上で語り部をされている丹野祐子さん


閖上中学校では中学校一年生の公太君を含む14名の生徒が津波の犠牲になりました。
名取市立閖上小中学校の敷地内に移設された慰霊碑
閖上中学校に植えてあった松や石碑なども同じ敷地内に移設されました。

校舎の屋上と4階は、地元の人たちへ津波の避難場所に開放されているそうです。
小学校に通う子供たちには、震災を知らない世代の子供たちも入ってきていて
そんな子供たちを見守るように慰霊碑はそこにありました。
語り継がれていって欲しいです。
午後から埼玉県の新座市で来年の栃木県での展示打ち合わせ行くため
閖上から、常磐道を通って南下します。

途中の南相馬PAで

なみえ焼きそばが想像を軽く超える美味しさで驚きました。
また食べにきたいと思います。

福島県双葉町にある、東日本大震災・原子力災害伝承館にも足を運びました。
東日本大震災、津波の被害の地域と、原子力災害の被害のあった地域、大きく分けて二つあります。
今まで、避難した先に暮らす家族の取材ばかりで、原発事故の被害のあった浜通りには足を踏み入れていませんでした。
常磐道からはじめて一般道に足を踏み入れて、双葉駅や大熊駅周辺を少しだけ散策しました。
黄色い、この先 帰宅困難区域という看板が主要道路から枝分かれする道路に
固く閉ざされたバリケードと共に置いてあって、まだまだ復興とは名ばかりだと思い知らされました。
知らないことだらけなので、これからも学んでいきたいと思います。

渋滞にも重なって、夕方にずれ込んで新座市に到着。
浪江から富士市へ避難された堀川先生のダキシメルオモイをお持ちしました。

夜中まで走って濃霧の高速道路に危険を感じて足柄SAで仮眠をとることに

11月22日(火)
早朝、無事に渥美半島の自宅に到着いたしました。
3泊5日1778キロ、南三陸取材旅、ご縁を繋いでいただいた皆様、
ありがとうごいざいました。
来年3月11日、南三陸で展示出来るように
頑張りたいと思います。
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