2018年11月23日

日進市 ダキシメルオモイ絵画展




【川根眞也氏 講演会】&【福島と全国の集い】&【ダキシメルオモイ絵画展】

愛知県 日進市民会館小ホール
スケジュールの変更のお知らせ
(参加者募集中!)拡散希望

13:30 開場

14:00 〜14:05
開演
主催 共催 協力団体の挨拶(5分)

14:05〜16:30
『福島産を食べないのは差別ですか?』自然放射能と人工放射能 川根眞也先生(内部被ばくを考える市民研究会 代表)講演
(2時間25分)

16:30〜17:00質疑応答
(30分)

5分休憩

『福島と全国の集い』
17:10〜17:50
報道されない避難者と人権
(福島原発事故損害賠償訴訟愛知・岐阜の原告より)

17:50〜19:30
「ダキシメルオモイ」アピールタイム福島原発事故被害者との交流会
(香川産の無農薬 無肥料 自然栽培のおむすびとお茶付き、お弁当、飲み物など持ちこみ可)

19:30 終了

●託児(無料)は同室託児となります。(要予約)

一般 500円
会員 300円
大学生以下、障がい者、避難者は無料

申し込み*お問い合わせ

090-5638-9363(吉田弥生)

datuhibaku_nisshin@yahoo.co.jp

主催/脱被ばく実現ネット日進
  


Posted by 小林憲明 at 06:53展覧会日記

2018年11月15日

分けへだてなく愛情を注ぎたいけれど

筋肉が弱くなっていく病気を患わっている子どもさんを持つご家族のダキシメルオモイ



3年前の取材時には立てていたのが現在は車椅子での生活に、5月の新潟での展示会で実物を観に来れなかったのが心残りで今回ご自宅までお届けしました。

ふたりの子どもに分けへだてなく愛情を注ぎたいけれど、なかなか思うようにいかず、上の子に我慢を強いてばかりと心を痛めているお母さん、
どういうダキシメルオモイがよいか、なかなか形になりませんでしたが、ふたりの子どもをふわりと優しく抱き寄せ、その真ん中にそっと視線を落とす母の姿に落ち着きました。



家族の数だけさまざまなオモイがあります
こうしたオモイに触れて描かせていただけることが
有り難いことだなと思いました。  


2018年11月12日

浪江町から高山へ移住した家族のオモイが出来るまで

9月、高山別院の仏青会からご縁をいただき、福島県浪江町から高山市へ移住された五十嵐浩子さんを紹介していただきました。五十嵐家のダキシメルオモイを取材から作品の完成までを追って書いてみたいと思います。

震災から1カ月、福島県内の避難所を転々として、県外で避難者の受け入れをしている自治体をネットで調べたら高山市がヒット、会津に避難した兄が車で送ってくれ高山市に避難、それから移住を決めるときに、同じく福島県双葉町で被災した両親を呼び寄せ一緒に暮らし始めたそうです。
飼っていた猫は地震で驚いて飛び出したまま行方不明、避難地域に入るボランティアにお願いして探してもらい、1匹は1年後、2匹目は1年7カ月後に見つかり、現在は一緒に暮らせていました。
モデルになっていただく人数、お母さん、子どもさんたち男の子3人、猫3匹(黒猫は高山の動物愛護団体から引き取る)
子どもさんたちが大人になってから、この絵とふたたび向き合って、いろいろあったけれど、最終的には良かったな、と思ってもらえるような絵を目指します。



麻布を1480×550のサイズに裁断
切れ端を木工用ボンドにて止め、上下に竹を通すために折り返しで縫い込む、



猫3匹を一緒に描く、子どもたちも猫たちも動き回るので、別々に捉えたものを再構成、構成の難しさが出ます、この家族らしい、オモイが流れる作品になればと、


描くところだけキャンパスにするので下地用のホワイトは大量に使います。500ml入りを使い切るところ、、、7枚描くのにホワイトだけで1リットルぐらい使います

よく練ります、混色などはムラをなくすために、何回も何回も練り回すので、かなり力作業になります

肌の部分を先行して


ほかの部分も


あたりをつけて行きます


左側の猫だけ、こちら側を覗き込むように、
観る人に問いかけるような表情になればと、
1年以上、浪江町をさまよった間になにを見て、なにを感じたのか、オモイを巡らしながら筆を進めます、


少しずつ描き進めていきます



完成、



10月31日夜7時
高山別院、本堂にて作品と対面していただき、
作品を前にお話いただきました。
対談という形をとりながら、

五十嵐さん、震災から心がけていること
朝はどんなにくちゃくちゃでも子どもたちと喧嘩しないで送り出す、ひょっとしたらそれが最後になるかもしれない、その理由も子どもたちに話して、家族のルールとして朝は絶対に喧嘩しない、仮にしたとしてもしっかりと送り出すことだそうです。

聞きながら、蓮如上人の“白骨の御文”を思い出しました。
たとえ朝、元気でいても、どうなるのかわからない、それは世の常である、
ついつい忘れがちになります、五十嵐さんの身をもって教えてくれたこと、心に響きました。

この五十嵐家のダキシメルオモイが145家族目の作品になりました。
なかなかスピードを上げられませんが、少しずつ描いていけたらと思います。

  


2018年11月11日

11日、防災訓練と取材

11日、朝7時から暮らしている地区の防災訓練に参加、地震や震災のすぐあとに、市などからすぐに支援は受けられない、“自分たちの命は自分たちで守る”ということで避難訓練、年々、参加者が少なくなっているような気がします。

そのあと宮城県から豊橋に越してきた家族の取材をさせていただきました。宮城県で震災の翌月に長女が産まれ、未だに甲状腺検査をし続けている、放射能汚染について、家族や命についてあの日に感じた大切なことを思い出させていただきました。
寄せていただいたオモイを紹介させていただきます。


誰の上にもわけへだてなく広がる空を見上げおもう
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震災の夜は、星の美しさに励まされ、子どもの胎動に勇気づけられ、大丈夫と思えました。不安からか深夜に前駆陣痛が起こ、それが始まった時には、この状況で助産院までたどり着けるか分からずいざというときは自宅で産む覚悟を決めました。朝には陣痛は落ち着きましたが。
震災直後は、実家家族の安否や放射能のことや津波のことも全く知らず、日々を生きることに必死でしたが、お腹に宿る命の存在、胎動に何度となく励まされ、とにかく子を守り、生きねば、の思いでした。そこに集中していたためか、自分の生命力が高まっているのを感じていました。
娘の存在に、私も主人も実家の家族たちもどれだけ救われ励まされたか、はかり知れません。
その後も出産予定の助産院のライフラインが止まっていた間、院長や私からもお腹に、まだよまだよ、と語りかけて過ごし、その後助産院のライフライン復旧とともに、産まれてきてくれた娘です。
産後帰省した実家では余震の影響で再度ライフラインが止まる中、家族の全力の支えの中で私と娘の命は安心して母子の関わりを味わえました。
飯館村のその先にある角田市(宮城県)は、当時の風向きの影響もあり、除染地域となるレベルの汚染がありました。
いま娘も甲状腺の定期健診を受けていて、先日今年の分を受けました。膿疱が見つかっているのですが、いまも変わらずあって、継続フォロー、まだ終われない現実を突き付けられました。
でも元気に笑顔で育ち行く娘の存在は、変わらず我が家の希望ですし、この笑顔を守るのが、親の使命と思ってもいます。親子で笑顔で過ごしていれば、道は明るく前に見えてくると思っています。  


2018年11月07日

石巻の家族のオモイとそのダキシメルオモイ



2016年10月、北海道岩見沢市で行われた社会福祉法人クピド・フェア50周年のパーティ会場でクピドさんが支援されている石巻市の樋口さんご夫婦とご縁をいただき、翌年3月、取材に行くことになりました。(2017.9.1.メーテレ放送)



2年前に完成したばかりの復興支援住宅、
石巻市内の復興支援住宅で暮らす樋口さん夫婦
樋口さんたちは津波の被害にあっていました

(奥さん)「津波来た、津波来た、逃げろ」という声が聞こえてきて、孫を抱えて(逃げた)



(旦那さん)「最初に見た津波は 除雪車で雪を押すのと同じで
津波がこのまんまで来る」

押し寄せた波で自宅は浸水、娘からあずかっていた、当時2歳と3歳の孫と一緒に屋外に出たところで津波に飲み込まれたが、運良く電柱につかまり孫を守った



(奥さん) 孫に、私から手を離すなと、電柱にしっかりつかまって、「おばあちゃん大丈夫?」と孫が言った
大丈夫だから絶対、助かるから手を離すなと
孫を助けるのに、自分が助からないと
それしか頭になかった



津波がすこし引いたスキに、避難した歩道橋の上に行ってみた
小さい赤ちゃんを抱いた母親が(フェンスに)つかまっていて、男の人に「この子だけでも助けて」と言って赤ちゃんを預けていた
歩道橋の上から見た景色は、まさに地獄だった
道路に流されていたら多分死んでいた



あの日からもう住めなくなった自宅へ
震災の爪痕は、家だけでなく、夫婦の心の中にもあった、
仮設から復興支援住宅には入れたが
気持ちは複雑だ



(奥さん) (仮設から)復興支援住宅に入って、他の人はどうか分からないけど、私は今の方がきつい、、、



(旦那さん) (仮設から) 復興支援住宅に入ると前向きというのがないからなんだろう、、、

(奥さん) 「ゴールが見えた」じゃないけど、
あとは人生の最終を迎えるだけだという感じ

震災から6年 目まぐるしく変わる環境に心が追いつかない、近くに住む娘の峰宮(はつみや)さんが孫を連れて復興支援住宅にやってきた



あの日、樋口さん夫婦が必死で守った子どもたちに再会出来たのは、震災から4日後だった



(娘さん) 「目に一杯涙をためて「ママ」って走ってきて、その時の子どもの顔は忘れない、4日間どんな思いでいたのかなと、
1人でも欠けていたら、今、絶対笑っていられない





抱きしめあう親子3世代を写真に収めた



アトリエに帰って
これまで親子の抱きしめ合う姿を描いてきたが、今回は違っていた、



「3世代に渡って(1枚に)描かせていただく初の試み」僕もどうなるのか読めない
震災を乗り越え、繋がった命


今を抱きしめ合うことが出来る喜びを、絵でなんとか表現しようとしていた
孫の命を守りきった(祖母)手を象徴的に描けたらいいと思いました。



6年経ってあの場所に立って
僕に話をしてくれたのが非常にありがたかった、



絵で返すことが出来たらと
津波の中、流されまいと孫たちをしっかりと抱きしめた祖母の手
4日後に再会した子どもたちを抱きしめた母の手
親子3世代の絵



あれから1年
2018年10月、完成した作品をようやく樋口さん家族に見せに行くことが出来ました。


描き手の願いとしては、
いろいろなオモイをさせた子どもたちを
大人たちが暖かく抱きしめてあげて欲しいなと
願い、描かせていただきました。

とても喜んでいただきました
復興支援住宅の寄り合い所で展示してみなさんにも観てもらいたい、ここに入っている他の家族も描いてもらえたらいいなと言ってもらいました。
これからも石巻や被災地に通い続けて、そうした家族のオモイを形に出来たらいいな、ふっと明るくなる絵が描けたらいいと思いました。
ご縁を繋いでいただいたクピドフェアのみなさま、ありがとうございました。
  


2018年11月07日

『 納骨の日に出てきた御文 』

日が変わる前に無事、高山別院から帰宅しました。。。(11月4日深夜)
出逢っていただいたみなさま、ありがとうございました。

昨晩、旭川別院から渥美半島へ戻り仏壇にお参りして、マイ箸、マイ茶碗のような旭川別院で買ったマイ正信偈を仏壇に入れようとしたら、



黒い表紙の分厚い教本?がありました、
翌朝、高山別院で僧侶の方に見てもらおうと持参、見てもらうと蓮如上人の死ぬまでに書いてきた、



御文をまとめた御伝承(ごでんしょう)、五帖御文(ごじょうおふみ)だと言うことがわかりました。



いままでさんざん劣等生で生きてきたので、優等生の斬れ味満載な親鸞聖人より、人情味あふれる蓮如上人の方に惹かれていまして、一緒に飲むなら蓮如上人と飲みたいなぁ、親鸞聖人だとスパスパと斬られそうだなぁ、なんて思いながら、本屋に行くと何故か蓮如上人についての本だけが無かったり(親鸞聖人の本は満載) 大谷大学での蓮如上人展、閉まっていて見れなかったり、吉崎御坊の博物館も閉まっていたり、、、
蓮如上人と出逢えない、ことごとくタイミングが合わない状態が続いて、蓮如に行くのはまだまだだと、何者かに言われているような、、、
青い鳥をさんざん探し歩いて、くたくたになって自宅の仏壇にありました、みたいな、、、義兄の納骨の日にこれが出てくるというのは、読みなさい、ということかなと、





高山別院 本堂での展示風景 30家族が並びました


高山別院の駐車場、観光バスでぎっしり

今回の旭川も高山も、優しい人との出逢いが本当に多かったです
今まで展示のご縁をいただいた場所、ほとんどの場所で優しさ溢れる人々に出逢いました。それって思うに

人は悲しみが 多いほど
人に優しく できるのだからぁ(海援隊・贈る言葉)

そのフレーズがリフレインしてきて
毎回毎回、逆説的に優しい人たちが出逢った悲しみを尋ねてみたくなったりします。
今回の移動中、エンドレス「贈る言葉」でした、、、

去りゆくあなたへ
終わりまで聞いて
愛するあなたへ
飾りもつけずに
もうとどかない

贈る言葉

僧侶が御文を読むとき
阿弥陀さまでもなく、私たちにでもなく、
真横を向いて、なにもない空間に向けて
読むんです、
これって

形があるものを頼むより、
形のないもの、目に見えないもの、
その大切さを、心にきざみこめと、
これでもかこれでもかと
言われているような、
そんな気がして、、、



私たちに
贈られた言葉
蓮如上人の愛が詰まった言葉の数々
これから少しずつ読んでいきたいと思います。



見つかった御文の本、
最後のページにこうありました、
「昭和29年6月2日、(志な?)を京都にて(求之ム?)同日 極上内敷 大小 二枚 求メ来ル 三重松(義祖父の名前) 福江(住所)」
昭和28年6月に20代で亡くなった長女( 近くの小学校の先生だった) の納骨に京都の本山に行ったのではないかと、
そのときに祖父母がこの本と、極上の内敷 (うちしき) 大小を2枚購入、内敷とは仏壇の中に敷く布、
愛知県の旧渥美町福江から長女の納骨に来た祖父母のオモイ、どんなものだったか、
また奇しくも同じ納骨の日に出てきたこの本、大切に読みたいと思います。

以下、高山〜旭川〜高山でいただいた麺類





宮川 中華そば 高山



中華そば 豆天狗 高山



ラーメン山南敬助 旭川





中華そば なかつぼ 高山

ご馳走さまでした。。。  


Posted by 小林憲明 at 05:16展覧会「ダキシメルオモイ」日記歴史

2018年11月06日

「白骨の御文、あなかしこ」

「白骨の御文、あなかしこ」

義兄が亡くなり今日が49日(しじゅうくにち)納骨の日ですが参加出来ないので、同じ宗派、浄土真宗大谷派の旭川別院のお朝勤(おあさじ・7時)に参加しました。

現在、旭川別院は報恩講(ほうおんこう)をしています、
生涯(90年)そのすべてを庶民の救済の為に命を砕かれた親鸞聖人(しんらんしょうにん)のご命日(めいにち)に、その教えとご恩を振り返る、浄土真宗大谷派のお寺の1年の中で大切な法要です(間違えていたら教えてください)
2年前の旭川別院の報恩講に輪番(りんばん・別院の長)から直々にダキシメルオモイの展示のお声がけをいただき、その展示期間中に会場で取材させていただいた方々のダキシメルオモイを描き上げ、今回、輪番が在任中に展示させていただきたいと少し頑張ってやってきました。


マイ正信偈(経本)を旭川別院で購入(500縁也)義兄を偲びながらお朝勤に参加しました。

お朝勤のあとの法話のテーマが最近ビリビリと響いている、親鸞聖人から数えて8代目の蓮如上人(れんにょしょうにん)の書かれた「白骨の御文(はっこつのおふみ)」
義兄の納骨の日に白骨の御文とは、、、
朝、元気にしていても、夜には白骨になる、亡くなってしまうかもしれない、
世の中は刻々と変わってゆくから、先のことはわからない、



今回、浪江町から高山に避難、移住されたお母さんの決めた家族のルール、朝は絶対に喧嘩しないでキチンと見送る、それが最後の別れになるかわからないからそのルールを守っているというのを思い出しました。

◯ただ白骨のみぞ のこれり・
あはれといふも中々 をろかなり

産まれて死んでゆく、自然や命のいとなみ
それは世の常であり、それをあわれというのは愚か、
仏法=虚しく人生を過ごすことこそがあわれ
(愚か)
と僧侶の方が白骨の御文を砕いて話してくれたのが心に響きました。

好きな絵をもっと描きたかった義兄
今、絵を描き続けられる身であることを有り難く思い、できるだけ、やれるだけ生きようと気持ちを新たにしました。

1回ホテルに戻り(お朝勤は朝7時からでした)朝食と風呂に入って、旭川は軍都として栄えた街(2年前に来たときは屯田兵から第七師団、自衛隊、旭川の歴史を自衛隊の博物館で学んだので)今回もどこか博物館へ行こうとホテルから歩いて旭川市博物館に到着したところで、宮城県から旭川に母子避難から父親が合流して移住、旭川にジャパチーズというお店を開いた長尾さん(ダキシメルオモイで描かせていただいたモデルさん)から旭川別院の本堂に展示してある作品を観に来たと連絡があり、あわててタクシーで旭川別院へ、



合流してから、旦那さんが地元ケーブルテレビに出演するというので別院からそちらへふたりで歩きながらチーズへの熱いオモイを聞きました(奥さまと子どもらは車でお店へ)
菌は生き物だから、力を出しやすいように環境を整えてあげるのが仕事の8割、フレッシュモッツァレラがシンプルですぐに出来るけれど、実は一番難しい、
そうしたオモイを聞いてから食べるチーズはまた違うなぁと、お土産はフレッシュモッツァレラに決めました☆


長尾さんの手、本人いわく、酪農家の手だそうです、皮が分厚くがっしりしている、驚きです。

長尾さんをテレビ局に見送り、
ひとりテレビ局からジャパチーズに歩きました、しばらく歩くと



「おもちゃのたもちゃん」という古びたがおもちゃ屋が目に止まり、最近、遠征先で小鬼らのお土産を買う場所が無かったので(ほとんどがイオン)ふらっと中に入ることに、店内を物色して奥まで入ると、店の真ん中で、真上に顔を向け口をくわっと開けながら居眠りするおじいさんとその横でちょっこり座るおばあさん夫妻がいて、少し驚きました、



小鬼らのお土産、自分へのご褒美(ガンプラ)を買って会計、梱包するときにおばあさんにこのお店のことをお聞きする(おじいさん寝続ける、生きているのか?少し心配に)


目の前の道は、駅から駐屯地まで続く師団通り(しだんどおり)、日本陸軍最強とうたわれた第七師団の駐屯地で軍都として栄えた旭川、
日清、日露、大東亜戦争、数々の激戦地にほとんど参加していた第七師団、出兵のたび、この師団通りを通って各地の戦場に旅立ち、還らぬ人はたくさんいたことは容易に想像出来ました、おもちゃ屋の前は、「寿 金子(ことぶき かねこ)」という木造料亭を30年して、繁盛していたので店先におもちゃを置きはじめたのがはじまりだそうです、それからコンクリートに建て替えてから
おもちゃ屋として70年している、寝ている?おじいさんが店主(たもちゃん?)おばあさんは函館から嫁いできたそうです。
昔はデパートの中のを含めておもちゃ屋が8件あった激戦区、今はここだけが残っているそう、戦地から無事帰ってきて、家に残した子どもにお土産のおもちゃを買い求めた父親の兵隊もいただろうなぁと偲びました。







ここ師団通りは、見送りの家族やそうしたたくさんのオモイにひたりながらジャパチーズへ、



ジャパチーズの建っている場所、昔は遊廓がたくさんあり華やかな地域で、



その中にある毛糸屋さんだったのを改装したそうです、
写真を見せていただきました。






ジャパチーズのとなりにある茶色の二階建てのお店が親子3代、100年近く続く「理容タカハラ」と聞いて入ってみたくなり入店、若主人に髭と頭を剃っていただきました。。。鏡に向かいながら、100年近くの間にどのくらいのお客さんが出入りしたのか、たくさんのドラマがあったんだろうなぁ、、、うつらうつら妄想しながら(妄想族)20分ほど師団通りのあったであろうドラマを妄想に浸りながら、、、



スッキリしてジャパチーズに、旦那さんがテレビ局から戻ってきていて、空港まで送ってくれると言ってくださり!ご好意に甘えることに、ありがとうございます。。。
空港まで旦那さんのおじいさんがパラオに開拓団で入った話、戦争に負けて日本に引き上げてから与えられた未開の地、そこを北原尾(きたはらお、パラオ)と名付けてふたたび一からやり直し、天国から地獄へ来たようだ、とよく口にしていたそうです、長尾家の親族の結束力の強さ、などなど、、、





今回、描かせていただいた避難してから移住したふた家族、どうしてバラバラにならずにともに暮らすことが出来たのか、、、
それは何だったのか、お話をお聞きしながらずっと考えていました、、、
それは答えが出ませんので、これは頭の片隅に保留しておいて、いつか何かと化学反応が起きるかなと期待しながら保留とします。



長尾さんに別れを告げ、旭川空港からセントレアへ、本当は翌日、高山別院なので名古屋か高山あたりに泊まろうか考えていましたが、ホームシックMAXなのでおとなしく渥美半島の自宅へ、、、



セントレアに着く直前、伊勢湾のからの夕陽がかなり綺麗でした。。。

道中のANA、となりの老夫婦は、
ボリボリ、ボリボリ、菓子を食う

ANA、菓子クオ
アナ カシコ、、、

なるほど、、、

みなさま、ありがとうございました。
ありがとう旭川、ビバ旭川。。。
また来ます!
  


Posted by 小林憲明 at 21:48展覧会日記ふるさと歴史