2024年06月21日
ダキシメルオモイ展in下田 無事終わりました。
6月14日(金)~16日(日) 3日間で来場者244人
とても優しい素敵な空間になりました。

ダキシメルオモイ、下田に暮らす8家族、南伊豆に暮らす3家族を含む42家族が下田のWith A Treeに集いました。

搬入当日の朝6時まで徹夜して描いていた下田7家族も何とか持ってこれました(;^_^A

・ 6月14日(金) 3日間の初日金曜日のオープニング 17時~20時

5年前に南伊豆で展示したときにfacebookで繋がらせていただいたウクレレ奏者の近藤エリさんとのコラボが叶いました。
アジサイの花飾りが歌姫に引き立てます。
会場のライティングが綺麗に見えるのは夜、昼間の明かりが消えて会場内が現像的に輝く瞬間。
金曜の夜が一番見頃だったかも、、、

5年前、南伊豆で会場を貸していただいた熱帯植物園の安藤さんが今夜咲くという月下美人を差し入れに持ってきてくれました☆
もうひとつの会場だった金剛院さまからは甘茶の差し入れ、有難いです。。。
月下美人は帰ってから咲きました。
・ 6月15日(土) 2日目 10時~16時

一枚だけアトリエに忘れてきた作品、急遽かみさんに頼んで宅急便で送ってもらいました。早朝会場にて受け取り。
最悪、渥美半島のアトリエまで取りに行こうかと思っていたので助かりました。

静岡テレビの佐藤さんが朝から会場で追跡取材していただいています。
5年前の南伊豆のときから取材していただいていて、今回は土曜日に宣伝で一回、展覧会終わってから特集で7分放送していただけることになりました。4月に能登半島の被災地へ取材に行った時も、同列局で金沢テレビさんにお願いして取材に同行していただきました。
丁寧な取材をしてくださいましたので、今から特集が楽しみです。

5年前、南伊豆での展示会場で、福島県南相馬市から下田へ避難、移住された大内さん家族も観にきてくださいました。

15時からの朗読会、下田に暮らす家族、南伊豆に暮らす家族から寄せていただいた10家族ぶんのメッセージを実行委員の東さんと萩原さんで朗読してくださいました。大内さんだけはご本人に朗読されました。
大内仁美さまのオモイ
2011年3月11日、あの日も私達家族は別々に過ごしていました。伊豆下田にある実家に2人の娘を連れて帰省中、主人は南相馬市で仕事中でした。まさかそのまま13年間ここで暮らすことになるとは思いもしません。
地震、津波の混乱の中始まった見えない敵との戦い、住む場所、仕事を失い、9人で住んでいた家族はそれぞれ別々に生活をすることになりました。
この13年間本当にあっという間でしたが、色々な葛藤がある中で必死に駆け抜けてこられたのは子ども達がいてくれたおかげです。この笑顔を守ろうと必死になれたのだと感じています。私達家族は普通の家族の形とは違うかもしれませんが、この完成した絵を見た時に目に見えない家族の絆がはっきりと見えました。今はこの笑顔がずっと続く事を願っています。
いろいろな
朗読会で読ませていただいたメッセージ
大切なことが散りばめられていました。

モデルさん家族にも来場いただきました。





翌朝の伊豆新聞にも掲載いただきました。
紹介文章が秀逸でした。
・6月16日㈰ 10時~16時





14時から会場内でお話会

15時からフラダンスも



最終日はモデルさんのオモイの朗読も加速


駐車場係をかって出てくださった実行委員のお二人☆
暑い中、お疲れさまでした。。。

With A Tree の外観

搬出終わって、もとのスペースに戻った会場

5年前に描かせていただいた南風公房のけいさんとりんちゃん(実行委員)

まさえさん(実行委員)との出会いは、5年前の南伊豆展の搬入日、そのとき息子さんのお話をしていただきました。
それから昨年、まさえさんのご実家、栃木での展示に繋がって

79年前のダキシメルオモイを描かせていただけることに
唯一生きている三女のカツ子さんも栃木から下田の会場に来ていただきました。

6年まえに埼玉県の和光でのダキシメルオモイ展の会場ではじめて出逢ったよしえさん(実行委員)とその家族
和光の会場で娘さんとお孫さんの取材をさせていただきました。
そのご縁が南伊豆から下田まで繋がっていたとは、、、


娘さんの不登校から、そうした子どもたちの居場所づくりがしたいと、埼玉から
自然の多い南伊豆にGest House KodoKodoをオープン

今回も大変お世話になりました。
朝食、美味しかった☆

来場いただいたみなさま、ありがとうございました!
気にかけていただけたみなさま、開催までの”ぎゅっとふぇす”で協力いただいたみなさま、
ダキシメルオモイ展in下田実行委員ともども感謝いたします。
伊豆半島最高☆
とても優しい素敵な空間になりました。

ダキシメルオモイ、下田に暮らす8家族、南伊豆に暮らす3家族を含む42家族が下田のWith A Treeに集いました。

搬入当日の朝6時まで徹夜して描いていた下田7家族も何とか持ってこれました(;^_^A

・ 6月14日(金) 3日間の初日金曜日のオープニング 17時~20時

5年前に南伊豆で展示したときにfacebookで繋がらせていただいたウクレレ奏者の近藤エリさんとのコラボが叶いました。
アジサイの花飾りが歌姫に引き立てます。
会場のライティングが綺麗に見えるのは夜、昼間の明かりが消えて会場内が現像的に輝く瞬間。
金曜の夜が一番見頃だったかも、、、

5年前、南伊豆で会場を貸していただいた熱帯植物園の安藤さんが今夜咲くという月下美人を差し入れに持ってきてくれました☆
もうひとつの会場だった金剛院さまからは甘茶の差し入れ、有難いです。。。
月下美人は帰ってから咲きました。
・ 6月15日(土) 2日目 10時~16時

一枚だけアトリエに忘れてきた作品、急遽かみさんに頼んで宅急便で送ってもらいました。早朝会場にて受け取り。
最悪、渥美半島のアトリエまで取りに行こうかと思っていたので助かりました。

静岡テレビの佐藤さんが朝から会場で追跡取材していただいています。
5年前の南伊豆のときから取材していただいていて、今回は土曜日に宣伝で一回、展覧会終わってから特集で7分放送していただけることになりました。4月に能登半島の被災地へ取材に行った時も、同列局で金沢テレビさんにお願いして取材に同行していただきました。
丁寧な取材をしてくださいましたので、今から特集が楽しみです。

5年前、南伊豆での展示会場で、福島県南相馬市から下田へ避難、移住された大内さん家族も観にきてくださいました。

15時からの朗読会、下田に暮らす家族、南伊豆に暮らす家族から寄せていただいた10家族ぶんのメッセージを実行委員の東さんと萩原さんで朗読してくださいました。大内さんだけはご本人に朗読されました。
大内仁美さまのオモイ
2011年3月11日、あの日も私達家族は別々に過ごしていました。伊豆下田にある実家に2人の娘を連れて帰省中、主人は南相馬市で仕事中でした。まさかそのまま13年間ここで暮らすことになるとは思いもしません。
地震、津波の混乱の中始まった見えない敵との戦い、住む場所、仕事を失い、9人で住んでいた家族はそれぞれ別々に生活をすることになりました。
この13年間本当にあっという間でしたが、色々な葛藤がある中で必死に駆け抜けてこられたのは子ども達がいてくれたおかげです。この笑顔を守ろうと必死になれたのだと感じています。私達家族は普通の家族の形とは違うかもしれませんが、この完成した絵を見た時に目に見えない家族の絆がはっきりと見えました。今はこの笑顔がずっと続く事を願っています。
いろいろな
朗読会で読ませていただいたメッセージ
大切なことが散りばめられていました。

モデルさん家族にも来場いただきました。





翌朝の伊豆新聞にも掲載いただきました。
紹介文章が秀逸でした。
・6月16日㈰ 10時~16時





14時から会場内でお話会

15時からフラダンスも



最終日はモデルさんのオモイの朗読も加速


駐車場係をかって出てくださった実行委員のお二人☆
暑い中、お疲れさまでした。。。

With A Tree の外観

搬出終わって、もとのスペースに戻った会場

5年前に描かせていただいた南風公房のけいさんとりんちゃん(実行委員)

まさえさん(実行委員)との出会いは、5年前の南伊豆展の搬入日、そのとき息子さんのお話をしていただきました。
それから昨年、まさえさんのご実家、栃木での展示に繋がって

79年前のダキシメルオモイを描かせていただけることに
唯一生きている三女のカツ子さんも栃木から下田の会場に来ていただきました。

6年まえに埼玉県の和光でのダキシメルオモイ展の会場ではじめて出逢ったよしえさん(実行委員)とその家族
和光の会場で娘さんとお孫さんの取材をさせていただきました。
そのご縁が南伊豆から下田まで繋がっていたとは、、、


娘さんの不登校から、そうした子どもたちの居場所づくりがしたいと、埼玉から
自然の多い南伊豆にGest House KodoKodoをオープン

今回も大変お世話になりました。
朝食、美味しかった☆

来場いただいたみなさま、ありがとうございました!
気にかけていただけたみなさま、開催までの”ぎゅっとふぇす”で協力いただいたみなさま、
ダキシメルオモイ展in下田実行委員ともども感謝いたします。
伊豆半島最高☆
2019年07月16日
震災から8年、避難者のダキシメルオモイ
3.11 午後2時46分。
自宅のダイニングテーブルに4歳の娘の幼稚園の制服姿とおやつを支度した私。
その時、夢か現実か区別がつかなくなるような地球ごと大きく揺れ続ける地震に緊急停止ボタンはなかった。
すぐさまネットから原発情報を発信されてる方を探しあて携帯画面から知った空高く立ち上る黒く大きなキノコ雲、それは福島第一原発3号機からだった。
娘を放射能から逃すのはもう間に合わない。
国会もテレビも原発は『直ちに影響はない』の繰り返し。
娘の友だちのママたちから漏れる不安な声。
原発から出る初期の大量の放射性物質については主人も、身内も、友だちたちも、知人の有識者の人たちも、市役所の職員たちも、子どもの命が大切じゃないのかな?と思う娘の幼稚園の先生たちさえも、被ばくに対しては楽観する声が私の周りではほとんどだった。
私は一人『娘をどうにかして放射性物質のない場所に連れ出さなくてはいけない!』という思いが込み上げていた。
パパを一人ぼっちで関東に残して母子疎開することは胸が引きちぎられる思いだった。
西へと向う新幹線の中で、娘の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
食品、水、土、木などから次々に〇ベクレル検出と読むと直ぐには自宅に戻ることはできないな、とパパに移住を呼びかけるけれどパパの回答は絶対に不可能だと言われ続けてきた。
それでも私はいつかパパに転機が訪れるチャンスを心のどこかで希望をしていた。
移住先の県で、支援を受ける氣は更々なかったけれど、被災登録した上で編集委員メンバーとして加われば、月1回県庁の一角の部屋で開催している編集会議に出席することで、避難に至った自身のありのままを投稿し被災登録されてる方などに発信ができると電話の向こうのセンター長から登録を勧められてすぐ登録手続きをし編集委員となった。
それなのに実際に編集会議に出て原稿を提出すると原発関連など使ってはならない語句や文だらけで、私の投稿したいありのままの文とはかけ離れた文に変えられてしまうのでした。
私は主人を関東に残して、不安定な生活を強いられる貴重な時間の中で県に自費で来ているのに、誰の何のために編集会議に出向く意味があるのか?と。
編集会議に出る度に前向きな氣もちを忘れないでと自分に言い聞かせるも虚しく、県に対する不信な思いは積み上げられていき苦しむのでした。
あれから8年半という月日が過ぎ、体調を崩す人、病気が増えました。
特に子どもたちに癌や白血病や突然死なんて聞くと胸が痛くなる思いです。
私は震災が起こる数年前、自身の体験で体に不調が出て日夜激しい痛みによって数分と眠ることができず、心身とも追い詰められていく出来事があった。
その症状は身にしっかり覚えがあり、数年前から朝にだけたまに起る症状で、でも病院にはいかず放置してきたのでした。
地震と同じで激しい痛みに緊急停止ボタンはなかった。
もうこのまま死ぬこともあるかもしれないなぁと思ったとき、『まぁ、私一人世の中にいなくたってどうだっていい存在なんだからそれも悪くない』と一瞬思ったのでした。
だけれども、横で寝ているまだ赤ちゃんだった娘のことを見たときハッとさせられ『それじゃーこの娘はどうするの?ダメでしょ!』と、自分を愛し大事にすることへ意識を転換したのでした。
その意識の中で『絶対に大事なこの体は病院に授けてたまるか!』と熱い氣もちが不思議と沸き上がってきたのでした。
そして、自然治癒力に逆らわないことをして痛みは少しずつ薄れていき、病魔は去っていきました。
もしあの時持続してきた症状に対して、自然治癒力に逆らう逆療法を用いる現代医療の病院に行ってお任せしていたらどうなっていたかと思うと恐ろしいことだ、と今でも思っています。
この1つの体験だけでなく、自然治癒力にアプローチした療法で、今まで何度か不調和の改善ができてきて、娘や自分の体への感謝の氣もちでいっぱいです。
原発も医療も同じように、非合法と言われる療法に圧力があることをこの日本では感じます。
原発事故で増えた子どもの甲状腺がんを氣にかけ無料施術をおこなってる技術者の方がいたり、病院でおこなわれているアロパシー(逆療法)以外にも、オステオパシー(整骨療法)、サイコセラピー(心理療法)、ナチュロパシー(自然療法)、ホメオパシー(同種療法)があること。
医の旧字体は醫ですが、実は醫の下に更に『巫と艸』の漢字が付いていたのだとどこかのサイトで読みました。
醫は→肉体の治療50%
巫と艸は→心の治療50%
この2つの文字が合体して、初めて100%といえるなど色々書いてあり、風邪をひけばイコール医者のところへ行けという世間からの目がある通り『医』という漢字が常用されており、私は深く納得させられたのでした。
原発事故から8年半経った今も、放射線の線量が高くなったり、汚染土をまとめるどころか国は全国へばら蒔く動きがある。
政府は今でも原子力緊急事態宣言中を出してる中で止まった原発の再稼働をしてきている。
私たち全ての生き物は、大自然によって生かされてる命であることから、美しい自然をより美しくして未来へ手渡すことが一人ひとり全員の意識に根付くまであと何年かかるのだろうか・・・。
絶滅する前に間に合うのだろうか・・・。
全ての生き物、この子どもたちが生かされてほしい。
私はこの8年間活動することばかりに意識を向けてきたため、大切な家族のメンバーであるパパとの間に溝が出来ていた。
被災時は4歳だった幼く可愛い娘も、家族バラバラのまま12歳となっていた。
できてしまった家族の溝を埋められるかはまだわからないけれど、今まで社会に時間を費やした分、今度は家族のメンバーとして家族に貢献できたらいいなぁと思っているダキシメルオモイ。
埼玉県幸手市→愛知県名古屋市
一児の母親

自宅のダイニングテーブルに4歳の娘の幼稚園の制服姿とおやつを支度した私。
その時、夢か現実か区別がつかなくなるような地球ごと大きく揺れ続ける地震に緊急停止ボタンはなかった。
すぐさまネットから原発情報を発信されてる方を探しあて携帯画面から知った空高く立ち上る黒く大きなキノコ雲、それは福島第一原発3号機からだった。
娘を放射能から逃すのはもう間に合わない。
国会もテレビも原発は『直ちに影響はない』の繰り返し。
娘の友だちのママたちから漏れる不安な声。
原発から出る初期の大量の放射性物質については主人も、身内も、友だちたちも、知人の有識者の人たちも、市役所の職員たちも、子どもの命が大切じゃないのかな?と思う娘の幼稚園の先生たちさえも、被ばくに対しては楽観する声が私の周りではほとんどだった。
私は一人『娘をどうにかして放射性物質のない場所に連れ出さなくてはいけない!』という思いが込み上げていた。
パパを一人ぼっちで関東に残して母子疎開することは胸が引きちぎられる思いだった。
西へと向う新幹線の中で、娘の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
食品、水、土、木などから次々に〇ベクレル検出と読むと直ぐには自宅に戻ることはできないな、とパパに移住を呼びかけるけれどパパの回答は絶対に不可能だと言われ続けてきた。
それでも私はいつかパパに転機が訪れるチャンスを心のどこかで希望をしていた。
移住先の県で、支援を受ける氣は更々なかったけれど、被災登録した上で編集委員メンバーとして加われば、月1回県庁の一角の部屋で開催している編集会議に出席することで、避難に至った自身のありのままを投稿し被災登録されてる方などに発信ができると電話の向こうのセンター長から登録を勧められてすぐ登録手続きをし編集委員となった。
それなのに実際に編集会議に出て原稿を提出すると原発関連など使ってはならない語句や文だらけで、私の投稿したいありのままの文とはかけ離れた文に変えられてしまうのでした。
私は主人を関東に残して、不安定な生活を強いられる貴重な時間の中で県に自費で来ているのに、誰の何のために編集会議に出向く意味があるのか?と。
編集会議に出る度に前向きな氣もちを忘れないでと自分に言い聞かせるも虚しく、県に対する不信な思いは積み上げられていき苦しむのでした。
あれから8年半という月日が過ぎ、体調を崩す人、病気が増えました。
特に子どもたちに癌や白血病や突然死なんて聞くと胸が痛くなる思いです。
私は震災が起こる数年前、自身の体験で体に不調が出て日夜激しい痛みによって数分と眠ることができず、心身とも追い詰められていく出来事があった。
その症状は身にしっかり覚えがあり、数年前から朝にだけたまに起る症状で、でも病院にはいかず放置してきたのでした。
地震と同じで激しい痛みに緊急停止ボタンはなかった。
もうこのまま死ぬこともあるかもしれないなぁと思ったとき、『まぁ、私一人世の中にいなくたってどうだっていい存在なんだからそれも悪くない』と一瞬思ったのでした。
だけれども、横で寝ているまだ赤ちゃんだった娘のことを見たときハッとさせられ『それじゃーこの娘はどうするの?ダメでしょ!』と、自分を愛し大事にすることへ意識を転換したのでした。
その意識の中で『絶対に大事なこの体は病院に授けてたまるか!』と熱い氣もちが不思議と沸き上がってきたのでした。
そして、自然治癒力に逆らわないことをして痛みは少しずつ薄れていき、病魔は去っていきました。
もしあの時持続してきた症状に対して、自然治癒力に逆らう逆療法を用いる現代医療の病院に行ってお任せしていたらどうなっていたかと思うと恐ろしいことだ、と今でも思っています。
この1つの体験だけでなく、自然治癒力にアプローチした療法で、今まで何度か不調和の改善ができてきて、娘や自分の体への感謝の氣もちでいっぱいです。
原発も医療も同じように、非合法と言われる療法に圧力があることをこの日本では感じます。
原発事故で増えた子どもの甲状腺がんを氣にかけ無料施術をおこなってる技術者の方がいたり、病院でおこなわれているアロパシー(逆療法)以外にも、オステオパシー(整骨療法)、サイコセラピー(心理療法)、ナチュロパシー(自然療法)、ホメオパシー(同種療法)があること。
医の旧字体は醫ですが、実は醫の下に更に『巫と艸』の漢字が付いていたのだとどこかのサイトで読みました。
醫は→肉体の治療50%
巫と艸は→心の治療50%
この2つの文字が合体して、初めて100%といえるなど色々書いてあり、風邪をひけばイコール医者のところへ行けという世間からの目がある通り『医』という漢字が常用されており、私は深く納得させられたのでした。
原発事故から8年半経った今も、放射線の線量が高くなったり、汚染土をまとめるどころか国は全国へばら蒔く動きがある。
政府は今でも原子力緊急事態宣言中を出してる中で止まった原発の再稼働をしてきている。
私たち全ての生き物は、大自然によって生かされてる命であることから、美しい自然をより美しくして未来へ手渡すことが一人ひとり全員の意識に根付くまであと何年かかるのだろうか・・・。
絶滅する前に間に合うのだろうか・・・。
全ての生き物、この子どもたちが生かされてほしい。
私はこの8年間活動することばかりに意識を向けてきたため、大切な家族のメンバーであるパパとの間に溝が出来ていた。
被災時は4歳だった幼く可愛い娘も、家族バラバラのまま12歳となっていた。
できてしまった家族の溝を埋められるかはまだわからないけれど、今まで社会に時間を費やした分、今度は家族のメンバーとして家族に貢献できたらいいなぁと思っているダキシメルオモイ。
埼玉県幸手市→愛知県名古屋市
一児の母親

2018年04月13日
朝日新聞、今まで掲載された6日分の6部を送っていただきました。


改めてこんなに紙面を割いていただいたことに感謝します。
ダキシメルオモイで出会ったさまざまな家族のさまざまな7年、絵では伝えきれない、それぞれが感じてきたこと、選択してきたこと、7年経って現在のオモイ、
記者の方、全国の家族に足を運んで丁寧に取材して記事にしていただきました。
秋田産まれの記者、新潟産まれの画家、
それぞれが抱く東北愛から生まれた今回の連載企画、いかがだったでしょうか?
まだまだ収束したとは言えない原発事故、
ひとたび事故が起こると
さまざまなオモイを抱く家族が出てしまいます
それぞれが守りたかったもの、それぞれのオモイを、描き続けていきたいと思います。
(以外 URLから朝日新聞のネットページにて、それぞれの記事が閲覧可能です、一部の記事はログインしていただかないと見れない記事有り)
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ダキシメルオモイ
原発事故7年と家族たち
被災者たちの「ダキシメルオモイ」 愛知の画家、東日本大震災後130組の家族描く
https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S13444881.html?iref=sp_ss_date

① 原発事故で避難 抱擁する家族の絵 モデルが選んだ道は
https://www.asahi.com/sp/articles/ASL2Q6H4ML2QOIPE03F.html?iref=sp_ss_date

② 離れて住むパパへ、小さな手に500円 原発避難家族
https://www.asahi.com/sp/articles/ASL3F5GY3L3FOIPE01F.html

③「桃は浪江に帰りたがった」、愛犬奪った原発事故
https://www.asahi.com/sp/articles/ASL3F5RDDL3FOIPE01Q.html?iref=sp_ss_date

④「1分1秒でも一緒に…」 福島で生きることを選んだ家族
https://www.asahi.com/sp/articles/ASL3F7S4GL3FOIPE038.html?iref=sp_ss_date

⑤ 手放した「東京」、北陸で見つけた道 原発避難家族
https://www.asahi.com/sp/articles/ASL3F7W75L3FOIPE039.html

2018年03月20日
ダキシメルオモイ 原発事故7年と家族たち ⑤ 「東京を離れ 見つけた道」
ダキシメルオモイ 原発事故7年と家族たち ⑤
「東京を離れ 見つけた道」
朝日新聞での連載最終回になります。(全5回)
新潟生まれの画家と秋田生まれの記者による東北愛から生まれたコラボ企画
繰り返してはいけない、終わっていない、こうしたオモイの家族を2度と出さない為には、防災の観点からも読んでいただけたら有り難いと思います。
関東から北陸に避難した家族のオモイ
全5回の連載、如何だったでしょうか?
原発事故、まだまだ収束していません、世界一安全基準といいつつ、福島での事故で絶大な効果を発揮した免震重要棟は再稼働される原発にひとつも建設されていません、、、
この連載に登場いただいた家族、明日は自分たちかもしれません、頭の片隅にでも入れていていただけたら有り難いと思います。
ウェブ記事
https://www.asahi.com/articles/ASL3F7W75L3FOIPE039.html
プロジェクト動画
https://www.asahi.com/articles/ASL2Q6H4ML2QOIPE03F.html
「東京を離れ 見つけた道」
朝日新聞での連載最終回になります。(全5回)
新潟生まれの画家と秋田生まれの記者による東北愛から生まれたコラボ企画
繰り返してはいけない、終わっていない、こうしたオモイの家族を2度と出さない為には、防災の観点からも読んでいただけたら有り難いと思います。
関東から北陸に避難した家族のオモイ
全5回の連載、如何だったでしょうか?
原発事故、まだまだ収束していません、世界一安全基準といいつつ、福島での事故で絶大な効果を発揮した免震重要棟は再稼働される原発にひとつも建設されていません、、、
この連載に登場いただいた家族、明日は自分たちかもしれません、頭の片隅にでも入れていていただけたら有り難いと思います。
ウェブ記事
https://www.asahi.com/articles/ASL3F7W75L3FOIPE039.html
プロジェクト動画
https://www.asahi.com/articles/ASL2Q6H4ML2QOIPE03F.html

2018年03月02日
浪江町の桃ちゃん
福島県浪江町から静岡県富士市に避難された堀川夫妻、一緒に避難して避難先で亡くなった愛犬の桃ちゃんとのダキシメルオモイを描かせていただきました。

避難先で散歩から帰るよ、
というと車に向かって浪江町に帰りたがった桃ちゃん、残された写真と桃ちゃんを抱き寄せたポーズをとっていただき、それらを合成して描かせていただきました。

アトリエで麻に描き始めた翌朝、
鍵がキーホルダーから外れて並んでいたり、
歯磨きしていたら背中を押されたり、
不思議なことが続きました。
それをかみさんに話すと、その日の夢の中で大きな白茶色の犬に誰も住まなくなった大きな家に連れて行かれた夢を見た、と言いびっくり。
夢の中で、白い毛布を奥からくわえてきて、大好きなご主人の匂いが残っているのか、嬉しそうにしていた、という不思議なことがありました。

絵の中で大好きなご主人と一緒になれてよかったね。合掌。。。
震災から七年が経とうとしています。
#ダキシメルオモイ #浪江町#絵本

避難先で散歩から帰るよ、
というと車に向かって浪江町に帰りたがった桃ちゃん、残された写真と桃ちゃんを抱き寄せたポーズをとっていただき、それらを合成して描かせていただきました。

アトリエで麻に描き始めた翌朝、
鍵がキーホルダーから外れて並んでいたり、
歯磨きしていたら背中を押されたり、
不思議なことが続きました。
それをかみさんに話すと、その日の夢の中で大きな白茶色の犬に誰も住まなくなった大きな家に連れて行かれた夢を見た、と言いびっくり。
夢の中で、白い毛布を奥からくわえてきて、大好きなご主人の匂いが残っているのか、嬉しそうにしていた、という不思議なことがありました。

絵の中で大好きなご主人と一緒になれてよかったね。合掌。。。
震災から七年が経とうとしています。
#ダキシメルオモイ #浪江町#絵本
2017年12月19日
朝日新聞とコラボして連載がスタートします。
ダキシメルオモイ プロジェクトを始動してから6年間で出逢った家族の方々を朝日新聞の記者と分身である作品と共に訪ね歩き、震災から7年を振り返っていただきます。
それを日本地図にマッピング、ウェブ上で閲覧出来るようにして、紙面(中部地区)とウェブの両方で連載していけたらと思っています。
さまざまな家族を描いてきましたが、本当にそれぞれの家族で、向き合ってきた状況、オモイが違っていて、ひとくくりに出来ないのですね、
それは被災していない家族も本当にいろいろありますが、、、

今回は、被災地に暮らす家族、津波の被害のあった地域、原発の被害のあった地域、被災地から避難した家族、それぞれ震災から7年をどうしてきたのか、どんなオモイで暮らしてきたのか、
母子避難された家族は、残った側、ダキシメルオモイでは描かれていない父親にもスポットを当て、どんな7年を暮らしてきたのか、可能な限り取材していけたらと話しています。
風化させてはいけない、無かったことにしてはいけない、対岸の火事ではなく、
どんな地域の、どんな人でも、同じことになる可能性はある、それぞれの家族が何を守りたかったのか、何を抱きしめたかったのか、
取材する記者は、秋田県出身の二児の父親、
ダキシメルオモイの冊子に寄せられた家族のオモイに心を寄せていただきました。
母子避難した家族のオモイを読んで、離れて暮らす父親側にも取材がしたい、両方の取材を通して家族のオモイが書けたらいいと、今回のコラボになりました。

僕はダキシメルオモイで右脳に、
記者は文章で左脳に、
右脳と左脳に働きかけるコラボレーションで
それぞれの家族のストーリーを紡いでいけたらいいなと思いますので、よろしくお願いします。
それを日本地図にマッピング、ウェブ上で閲覧出来るようにして、紙面(中部地区)とウェブの両方で連載していけたらと思っています。
さまざまな家族を描いてきましたが、本当にそれぞれの家族で、向き合ってきた状況、オモイが違っていて、ひとくくりに出来ないのですね、
それは被災していない家族も本当にいろいろありますが、、、

今回は、被災地に暮らす家族、津波の被害のあった地域、原発の被害のあった地域、被災地から避難した家族、それぞれ震災から7年をどうしてきたのか、どんなオモイで暮らしてきたのか、
母子避難された家族は、残った側、ダキシメルオモイでは描かれていない父親にもスポットを当て、どんな7年を暮らしてきたのか、可能な限り取材していけたらと話しています。
風化させてはいけない、無かったことにしてはいけない、対岸の火事ではなく、
どんな地域の、どんな人でも、同じことになる可能性はある、それぞれの家族が何を守りたかったのか、何を抱きしめたかったのか、
取材する記者は、秋田県出身の二児の父親、
ダキシメルオモイの冊子に寄せられた家族のオモイに心を寄せていただきました。
母子避難した家族のオモイを読んで、離れて暮らす父親側にも取材がしたい、両方の取材を通して家族のオモイが書けたらいいと、今回のコラボになりました。

僕はダキシメルオモイで右脳に、
記者は文章で左脳に、
右脳と左脳に働きかけるコラボレーションで
それぞれの家族のストーリーを紡いでいけたらいいなと思いますので、よろしくお願いします。
2017年08月10日
BSTBS「サタデードキュメント」に協力させていただきました。
3月25日、朝10時〜放送、サタデードキュメント
『自主避難者はどこへ〜』
に取材協力させていただきました。
大阪のTBSの記者の方が取材してきた自主避難された方々のドキュメント番組、
その冒頭と終わり部分でナビゲーターの中村雅俊さんに、ダキシメルオモイプロジェクトに参加いただいたモデルの方々のオモイを紹介いただきました。




今まで出逢って描かせていただいた避難者のダキシメルオモイ、中村雅俊さんの朗読により、
メッセージがより強くなるような気がしました。


1番伝えたかった、
家族を守りたい、
という避難者の強いオモイ、


中村雅俊さんの故郷が宮城県女川ということで、
陸前高田のお母さんの作品紹介部分は、
特に力が入っていたように感じました。

この機会に少しでも多くの方々にオモイが届くことを祈ります。



ありがとうございました。
『自主避難者はどこへ〜』
に取材協力させていただきました。
大阪のTBSの記者の方が取材してきた自主避難された方々のドキュメント番組、
その冒頭と終わり部分でナビゲーターの中村雅俊さんに、ダキシメルオモイプロジェクトに参加いただいたモデルの方々のオモイを紹介いただきました。




今まで出逢って描かせていただいた避難者のダキシメルオモイ、中村雅俊さんの朗読により、
メッセージがより強くなるような気がしました。


1番伝えたかった、
家族を守りたい、
という避難者の強いオモイ、


中村雅俊さんの故郷が宮城県女川ということで、
陸前高田のお母さんの作品紹介部分は、
特に力が入っていたように感じました。

この機会に少しでも多くの方々にオモイが届くことを祈ります。



ありがとうございました。
2017年03月02日
ダキシメルオモイ
避難して半年のころ
ボランティアが、子ども達を遠足に連れて行ってくれた。
帰る頃になり、みんなにお小遣いが渡された
『これで、お土産を買いなさい』
お土産コーナーには、色とりどりのお菓子や玩具。
でも、4歳の次男は、わき目も降らずに私のところに駆けてきた。
頬を赤くし、握り締めていた500円玉を、真っ直ぐ差し出して
『このおかね、おとうさんにあげて
ね、おかねあるからだいじょうぶ
おとうさんに、もう おしごとやめて って
いっしょにくらそう』
生まれて初めて、お金を手にした息子が欲しかったのは
お菓子でも、おもちゃでもなく、ただ お父さんのいる暮らし。
避難する前の、ごく普通の生活。
私は ただ『ごめんね』と、泣きながら息子を抱きしめた。
あれから5年。今、次男は 私が難しい顔をしていると
黙って あったかいミルクティーを入れてくれる。
いよいよ追い出される避難住宅。友を襲う健康被害。
理不尽な日々に、上手に笑えない私の顔を覗き込んでは
おどけて笑わそうとしてくる息子。
慌てて笑顔を作る。見透かされてるかな。
でもこの子等がいるから、私は生きられる。
懸命に子どもを守っているつもりで、実は子どもに守られてばかり
そんな私の ダキシメルオモイ
(福島県いわき市 → 東京都 二児の母親)

ボランティアが、子ども達を遠足に連れて行ってくれた。
帰る頃になり、みんなにお小遣いが渡された
『これで、お土産を買いなさい』
お土産コーナーには、色とりどりのお菓子や玩具。
でも、4歳の次男は、わき目も降らずに私のところに駆けてきた。
頬を赤くし、握り締めていた500円玉を、真っ直ぐ差し出して
『このおかね、おとうさんにあげて
ね、おかねあるからだいじょうぶ
おとうさんに、もう おしごとやめて って
いっしょにくらそう』
生まれて初めて、お金を手にした息子が欲しかったのは
お菓子でも、おもちゃでもなく、ただ お父さんのいる暮らし。
避難する前の、ごく普通の生活。
私は ただ『ごめんね』と、泣きながら息子を抱きしめた。
あれから5年。今、次男は 私が難しい顔をしていると
黙って あったかいミルクティーを入れてくれる。
いよいよ追い出される避難住宅。友を襲う健康被害。
理不尽な日々に、上手に笑えない私の顔を覗き込んでは
おどけて笑わそうとしてくる息子。
慌てて笑顔を作る。見透かされてるかな。
でもこの子等がいるから、私は生きられる。
懸命に子どもを守っているつもりで、実は子どもに守られてばかり
そんな私の ダキシメルオモイ
(福島県いわき市 → 東京都 二児の母親)

2017年02月15日
東京新聞に掲載いただきました。2月19日、埼玉県でのイベントについて
東京新聞 2月15日
原発事故の影響から子どもたちを守ろうとする母親たちの姿を描いたドキュメンタリー映画「小さき声のカノン−選択する人々」(鎌仲ひとみ監督、一時間五十九分)の上映会と、子どもを抱き締める親の姿を描いた絵画展「ダキシメルオモイ」展が十九日、坂戸市文化施設オルモで開かれる。福島県から自主避難中の母親が企画し、坂戸市民らが協力して実現した。当日は鎌仲監督と画家の小林憲明さんのトークイベントも開かれる。(中里宏)
企画したのは、福島県いわき市から長男(11)、長女(9つ)を連れて県内に自主避難している河井加緒理(かおり)さん(35)と、「ルポ 母子避難」の著者で母親たちのサポートも続けるフリーライターの吉田千亜さん(39)。
河井さんは避難後、県内の病院で看護助手として働いた。集合住宅では「毎月お金をもらえていいね」などと言う近隣住民の何げない言葉が「胸に刺さった」という。
先の見えない生活の不安も重なり、めまいに悩まされるようになった。仕事から疲れて帰って子どもの相手を十分できないとき、「子どもを守りたいと逃げてきたのに、私は何をやってるんだろう」と自責の念にかられ続けたという。
吉田さんが関わる自主避難者の集いには、今年になってから初めて参加する母親もいるという。「自分だけ逃げてきたという罪悪感や、周囲に理解してもらえないのではないかという不安から、避難していることを隠している人もいる。不眠や突発性難聴などに悩む母親も多く、それだけ追い詰められている」と吉田さんはいう。
河井さんは鎌仲監督の「小さき声−」を吉田さんを通じて知った。福島県やチェルノブイリ原発事故の影響が残るベラルーシで、放射能汚染から子どもを守ろうと葛藤を抱えながら生きる母親や家族の姿を追ったドキュメンタリー。
自主避難者は三月末で福島県の住宅支援が打ち切られ、難しい選択を迫られている。それでも河井さんは「避難できた自分が、福島の母親たちを黙って見過ごしていいのか。福島に住んでいる母親たちの姿を多くの人たちに知ってほしい」と話す。
二〇一四年から福島県郡山市の小学生を招き、バーベキューや川遊びなど外遊びの思い出づくりをサポートしている坂戸市の「郡山の子どもたちと遊ぶ会」の武井誠事務局長が、河井さんと吉田さんの願いを聞き、上映会などの主催を引き受けた。
画家の小林さんは一二年から、東日本大震災の被災地や避難先で親子を取材。縦長の麻布に親子の姿を描き続け、各地で「ダキシメルオモイ」展を開いている。鎌仲監督も小林さんも交通費だけで坂戸市に駆け付ける。
吉田さんは「子育て世代として、一部の人たちだけが犠牲になっている状況でいいのか。子どもを守りたいという親の気持ちだけは理解してもらえると思うので、一緒に考えてくれる人を増やしたい」と話している。
上映は午後一時半と午後五時半の二回。入場料千円(学生・障害者五百円)。問い合わせは武井さん=電090(9854)5175=へ。

原発事故の影響から子どもたちを守ろうとする母親たちの姿を描いたドキュメンタリー映画「小さき声のカノン−選択する人々」(鎌仲ひとみ監督、一時間五十九分)の上映会と、子どもを抱き締める親の姿を描いた絵画展「ダキシメルオモイ」展が十九日、坂戸市文化施設オルモで開かれる。福島県から自主避難中の母親が企画し、坂戸市民らが協力して実現した。当日は鎌仲監督と画家の小林憲明さんのトークイベントも開かれる。(中里宏)
企画したのは、福島県いわき市から長男(11)、長女(9つ)を連れて県内に自主避難している河井加緒理(かおり)さん(35)と、「ルポ 母子避難」の著者で母親たちのサポートも続けるフリーライターの吉田千亜さん(39)。
河井さんは避難後、県内の病院で看護助手として働いた。集合住宅では「毎月お金をもらえていいね」などと言う近隣住民の何げない言葉が「胸に刺さった」という。
先の見えない生活の不安も重なり、めまいに悩まされるようになった。仕事から疲れて帰って子どもの相手を十分できないとき、「子どもを守りたいと逃げてきたのに、私は何をやってるんだろう」と自責の念にかられ続けたという。
吉田さんが関わる自主避難者の集いには、今年になってから初めて参加する母親もいるという。「自分だけ逃げてきたという罪悪感や、周囲に理解してもらえないのではないかという不安から、避難していることを隠している人もいる。不眠や突発性難聴などに悩む母親も多く、それだけ追い詰められている」と吉田さんはいう。
河井さんは鎌仲監督の「小さき声−」を吉田さんを通じて知った。福島県やチェルノブイリ原発事故の影響が残るベラルーシで、放射能汚染から子どもを守ろうと葛藤を抱えながら生きる母親や家族の姿を追ったドキュメンタリー。
自主避難者は三月末で福島県の住宅支援が打ち切られ、難しい選択を迫られている。それでも河井さんは「避難できた自分が、福島の母親たちを黙って見過ごしていいのか。福島に住んでいる母親たちの姿を多くの人たちに知ってほしい」と話す。
二〇一四年から福島県郡山市の小学生を招き、バーベキューや川遊びなど外遊びの思い出づくりをサポートしている坂戸市の「郡山の子どもたちと遊ぶ会」の武井誠事務局長が、河井さんと吉田さんの願いを聞き、上映会などの主催を引き受けた。
画家の小林さんは一二年から、東日本大震災の被災地や避難先で親子を取材。縦長の麻布に親子の姿を描き続け、各地で「ダキシメルオモイ」展を開いている。鎌仲監督も小林さんも交通費だけで坂戸市に駆け付ける。
吉田さんは「子育て世代として、一部の人たちだけが犠牲になっている状況でいいのか。子どもを守りたいという親の気持ちだけは理解してもらえると思うので、一緒に考えてくれる人を増やしたい」と話している。
上映は午後一時半と午後五時半の二回。入場料千円(学生・障害者五百円)。問い合わせは武井さん=電090(9854)5175=へ。

2017年01月26日
あれから6年
2011年3月12日の晩、友人からかかってきた電話を切った直後
「すぐに出発だ」と夫が言った。幸いガソリンは満タンだった。
私たちは避難所から自宅に戻ることなく、福島を離れた。
あれから5年以上になるが、子どもたちは一度も福島に戻っていない。
当時2歳だった娘は、福島のことをもうほとんど覚えていない、
小学校入学直前だった息子は来年は中学生になる。
吾妻山、安達太良山を望む川沿いの土地に家を建て、子育てする夢は
諦めなくてはならなくなった。
狭い借り上げ住宅、3枚の布団に4人で寝る生活の中、家を設計することが
息子の将来の夢になった。
もう5年、まだまだ5年。まだまだ渦中の私たち。
見通しのきかないということがこんなにしんどいとは思わなかった。
家族のからだとこころの健康が何より一番大切だと、守らなくてはと、
子どもたちとの何気ない日常を大切に過ごす日々。
私たちはいつかこの日々をどんなふうにふりかえるのだろう。
家族として生活しはじめ、子どもたちを授かった福島
絶たれた縁、失った時間はとても大きく、取り返しがつかない。
けれど、より深いものに気づき、より温かい縁にも恵まれて、
私たちはとりあえず元気に生きています。
子どもたちを日々守っているつもりだったけれど、
守られていたのは私たちでもあったね。
この子たちの未来を見据えたら、大切なことが何か、
心がぶれることは無い。
大切な、かけがえのない、家族。

(福島市→新潟市 父親の意思により新潟市に母子を避難)
「すぐに出発だ」と夫が言った。幸いガソリンは満タンだった。
私たちは避難所から自宅に戻ることなく、福島を離れた。
あれから5年以上になるが、子どもたちは一度も福島に戻っていない。
当時2歳だった娘は、福島のことをもうほとんど覚えていない、
小学校入学直前だった息子は来年は中学生になる。
吾妻山、安達太良山を望む川沿いの土地に家を建て、子育てする夢は
諦めなくてはならなくなった。
狭い借り上げ住宅、3枚の布団に4人で寝る生活の中、家を設計することが
息子の将来の夢になった。
もう5年、まだまだ5年。まだまだ渦中の私たち。
見通しのきかないということがこんなにしんどいとは思わなかった。
家族のからだとこころの健康が何より一番大切だと、守らなくてはと、
子どもたちとの何気ない日常を大切に過ごす日々。
私たちはいつかこの日々をどんなふうにふりかえるのだろう。
家族として生活しはじめ、子どもたちを授かった福島
絶たれた縁、失った時間はとても大きく、取り返しがつかない。
けれど、より深いものに気づき、より温かい縁にも恵まれて、
私たちはとりあえず元気に生きています。
子どもたちを日々守っているつもりだったけれど、
守られていたのは私たちでもあったね。
この子たちの未来を見据えたら、大切なことが何か、
心がぶれることは無い。
大切な、かけがえのない、家族。

(福島市→新潟市 父親の意思により新潟市に母子を避難)