2018年10月25日

ナノカナノカ〜正信偈から波形して〜

義兄が亡くなり、お葬式から毎週1回和尚さんがお経(正信偈・しょうしんげ)をあげにきてくれます。赤い表紙の赤本(あかほん)と呼ばれているものをひとりに一冊ずつ配って、みんなで和尚さんに続いて仏壇のご本尊(ごほんぞん)の阿弥陀さま(あみださま)にむかい読みます。「7日なのか(なのかなのか)」7日ごとに7回で最後が49日(しじゅうくにち)のおまいり、毎週水曜日の夕方に来ていただき、正信偈とお経が終わってからの説教?浄土真宗(じょうどしんしゅう)の歴史やお経の意味、お数珠の持ち方、お線香のあげ方、他宗派や浄土真宗の中でも分かれているやり方の違いなど、丁寧に言葉をくだいて話してくださり、ちょっとした講義のようで毎回楽しみにしています(不謹慎だと思いますが汗)、渥美半島は曹洞宗(そうとうしゅう)が半分以上を占めている中で、浄土真宗のお寺は少ない方だそうです、今夜で3回目?でしたが、正信偈を家族や親戚と並んで読む、最初、まったく読めなかったのですが(報恩講(ほうおんこう)など展示のときや泊まらしていただいたお寺のお朝勤(おあさじ)に参加して耳では何回も聞いていましたが)お経の漢字の右側にふられた、ひらがなのよみかたとふし?を頼りに、たどたどしく、何回も何回も間違いながら読んでいくと、なんとなく和尚さんについていけるような気になり、今日は左側の漢字(本願、弥陀、釈迦、如来、凡夫、實、、、)をチラチラと見えるようになり、意味を読み解こうとしたり、、、門前の小僧というやつですが、700年以上読む継がれてきた正信偈、意味も含めて読みたいなと思いました。

ふと、キリスト教と仏教とどちらを選ぶべきか、ということに腐心した方を思い出して、最終的に仏教を選んだそうです。なぜかというと、
神にはなれないけれど仏にはなれる、
キリスト教は厳しい戒律があるけれど、仏教はどんな人でも救われる、キリスト教批判ではないのですが、例えで、強姦されて妊娠した娘を持つ父親がどうしたらいいかと尋ねてきた場合、キリスト教は堕胎は許されませんから必ず産まなければいけない、しかし育てられなければ受け皿として孤児院がある、
仏教は、堕胎しても、産んでも、どちらを選んでも責められることはない、どちらの選択をしても許される、そうした寛容さがいいなと仏教を選んだ、という話を思い出しました。聞いた話を書いているので間違っていたらスミマセン、ご教授いただけたら有り難いです。

人の煩悩は消し難い、偉い修業をした親鸞(しんらん)さんでさえ死ぬ間際に未だに消せないと言われた、自分の煩悩、駄目なところを是も非もせず、ただ過ちに気づいたとき、そんな自分も自分と受け入れ、じゃあそこからどう生きてゆくのか、そこが問われる

というような、なんというのか
過去は変えられないけれど、それに気づいた時から生き方をあらためればいいんだよ、と応援されている感じが
なんかいいな、救われるな、と思いました。
あるがままの自分で卑下することもなく、ゆだねながらしかし厳しく生き方を自分で迷い続けながらも歩を進めてゆく、、、
寛容さがだんだんと薄くなっているような世の中でそんなことを、、、  


Posted by 小林憲明 at 22:30日記ふるさと出遇ったコトバ

2018年10月02日

無言の説法

亡くなった義兄のお葬式
かみさんの実家の宗派は浄土真宗大谷派

今まで出会ってきた大谷派の僧侶の方々から
お葬式の説法の難しさを聞いていたので
どんな説法になるのか気になっていました


「 無言の説法 」

亡くなられた故人を思い出し
向き合うことで出会いなおす
出会いは一度きりではなく
向き合うたびに出会ってゆく
人に限らず物事も同じ

如何に生きていくのか
答えは出ないけれど
問い続けることが大切


という説法をいただきました
出会いは一度だけでなく
何回も繰り返すのだと
気づかされました

最後、棺を閉じるとき
飾られた花を横たわる義兄のまわりにそえるのですが
義兄の素足のまわりに花を捧げました
ずっと兄を支えてきてくれてありがとう
感謝もそえて

  


Posted by 小林憲明 at 11:31日記出遇ったコトバ