2023年07月03日

80年前の家族のダキシメルオモイ ~5月遠征


一か月以上、空きましたがブログ再開します。

5月に栃木県に遠征取材したときの様子を【第14師団歩兵第66連隊を訪ねて】
80年前のダキシメルオモイを描くにあたり
お爺さんの冨山佐一郎さんが所属していた宇都宮にあった歩兵第66連隊の駐屯跡地(現在の宇都宮中央女子高校)に向かいました。

(宇都宮駅)

(第66歩兵連隊倉庫跡・宇都宮中央女子高校敷地内)
岩舟駅から鉄道で宇都宮駅へ、駅から駐屯地まで約4.8キロを徒歩で1時間、どんな風景が見えるのか辿ってみることに(車で周りました)


道中にあった栃木縣護国神社(明治維新から亡くなられた栃木県出身の55361名が祀られている)に寄って亡くなられた方々に手を合わせて、

境内内にある護国会館で何か資料がないか訪ねてみたら、宮司さんと栃木県遺族連合会の副理事長(護国神社の総代も兼ねる)方がたまたまロビーにいて、栃木県の郷土部隊である第59連隊と第66連隊の貴重な話を聞かせてもらえました(6時間以上も!)途中、83歳の副理事の方の20歳のときから行きつけにしている護国神社近くのお蕎麦屋さんにも同席させていただいてお昼をご馳走になりながらお聞きしました
ジャワの天国
ビルマの地獄
死んでも帰れぬニューギニア


(護国会館にあった兵装を試着させていただきました)
栃木の郷土部隊は中国に派遣されていたのですが、昭和17年11月から南方転用になります。
その前に、精米2日分と干し肉を含む35キロの荷物を背負って過酷な山岳行軍訓練をして、耐えられる兵士をふるいにかけ再編成したそうで(4000m級の山岳を行軍する過酷な作戦だとわかっていたから)
東部ニューギニアに転用して、12万いた兵士は11万7千人亡くなるという、ほとんどの死因は餓死だそうです。
今でもニューギニアにはベビやカエルがいないというぐらい食料に困窮した日本軍が現地の食べられる物を根こそぎ食べ尽くしたそうです。
同じ亡くなるにしても食べられる植物が周りに自生しているジャワで亡くなって欲しかったと、先行部隊が植えた小指ぐらいの芋が食べられないぐらいの飢えで亡くなった父親を持つ副理事はおっしゃっていました。
第66連隊駐屯跡地にある赤レンガ倉庫、そこから宇都宮駅へ徒歩で行軍して、窓と椅子の無い軍用列車にて神戸や大阪の港まで搬送され戦地に向かって行ったそうです。ふるさとの景色を見て戦意が薄れるのを防ぐため窓を無くしたとか、船はもちろん窓の無い船底に押し込められ、人というか兵隊を、コマを動かすような荒い運用に、佐一郎さんたちが暗い列車や船底に何時間も鮨詰め状態で運ばれたところを想像して、驚きとショックを受けました、、、



宇都宮駅と駐屯地を結ぶ街道沿いにある宇都宮二荒山神社⛩、招集令状で駐屯地に向かう兵士の方々が出兵の無事を祈ったり、帰ってこれたお礼を伝えたところなのかなと、こちらにも手を合わせてきました。

参道にあるお店で栃木県の日本酒、宇都宮酒造の四季桜を、郷土部隊の方々へのお供え用に、佐一郎さんの家族のダキシメルオモイを描くときにお下がりを飲んで描きはじめたいと思い買い求めました。
宇都宮の餃子
旧満州から引き上げてきた第59連隊の兵士が駅前に屋台で餃子を出したのがはじまりだそうです。
佐野ラーメンも戦後の食糧難のときに出来たとか、、、
現在に繋がっているのだなぁと感じました。
昭和17年に39歳で退役した佐一郎さん
20年近く所属した郷土部隊、中国でともに戦ってきた戦友のほとんどが東部ニューギニアで亡くなったと言うこと、残された佐一郎さんはどんなオモイだったのか、30歳を過ぎてから前線の部隊から後方の兵站(食料)輸送部隊の警備に配属変えされています、上官か誰か、よくしてくれた人がいたのかなとか、いろいろなことを思いました。
あと、佐一郎さんのお父さん、お母さん、
いったいどんなオモイで息子を戦地に送り出したのか、、昨日は母の日だったので、佐一郎さんのお母さんの立場で息子のことを思ってみました。
これはこれで辛かった、、、

つづく