2021年11月27日

新潟のMINAMATA ①


新潟市の福島潟にある「環境と人間のふれあい館」へ行ってきました。(10/26)

1956年に熊本で起きた水俣病
その約10年後の1967年、新潟県阿賀野川(あがのがわ)下流域で水俣病と同じの症状の患者が多数確認されたために第二次水俣病とされた。

福島県から新潟県に避難移住された方々が第二次水俣病を学んでいるということ、被害者同士で何回か学び合いをこの施設でしているのを知って、いつか行きたいと思っていました。
東電の原子力事故も水俣病も、人が引き起こした公害という点では同じだと思います。
メチル水銀を生活用水に流すことが引き金になるということを知っていて防げなかった公害、人が引き起こした人災とも言えると思います。


「環境と人間のふれあい館」 
新潟で起きた水俣病について見やすい資料や展示で丁寧に見せてくれていました。
入場無料というのが信じられない。
地元の小学校の生徒が課外授業?で訪れていたので解説してくれるガイドさんと一緒にまわらせていただきました。

視聴覚室で患者さんのお話を映像で見せてもらいました。
阿賀野川中流域で河の渡し(県の職員)をされていた立川さん、水俣病の患者が差別や偏見にさらされているのを見聞きして、自分から言い出せず、仕事を定年退職した直後に国と企業を訴える裁判を起こします。
症状が神経や耳鳴り、頭痛と見た目にわかり難いことから、金目当てなど言いがかりなどされたりしたそうです。


立川さんが使っていたという渡し舟と五十島に立っていた標識


阿賀野川で行われていたというサケ漁につかわれていた鮭番屋(あんじゃ小屋)
1960年代初めまでサケ漁が行われていました。


新潟水俣病年表



アセトアルデヒトを使った製品
これらの製品を造る過程で副生するメチル水銀

明和電工鹿瀬工場で製品を作って副生したメチル水銀を阿賀野川へと排水していた

阿賀野川上流から流されたメチル水銀が食物連鎖を通して流域で川魚を食べた人々に健康被害が出てきました

仕事を奪われた被害者

差別や偏見に苦しむ被害者

エゴイに水銀がたくさん含まれていたそうです。
小骨が多いエゴイは売り物にはならず、捕れたら近所で分け合って食べられた魚

資料館の一階には阿賀野川に暮らす魚たちの水槽が

ニゴイ

巨大な阿賀野川流域ジオラマも

旧新津市を流れる阿賀野川、秋葉山も

上流の明和電工があった鹿瀬近郊

地図にはQRコードがところどころにあって

阿賀野川スコープをQRコードの上まで移動させて読み解いて学ぶ疑似体験?も出来ます

水銀汚染が確認されてから、新潟県は川魚を食べないよう指導したり、
河川に流れ出したメチル水銀を含む土砂を取り除いたり、流域に暮らす人々の健康調査や生態系、水質調査をして
1978年に安全宣言を出しました。

被害者の方々の手記を購入してきました。
新潟県にも水俣病という公害があって、その被害とどうやって取り組んできたのか、
学ぶ機会をいただきました、とても良い施設。
子どもを連れてまた来たいな。

阿賀野川、実際に現場に行ってみたくなったので行ってみたいと思います。

つづく


  


Posted by 小林憲明 at 12:14日記ふるさと歴史

2021年11月24日

新潟に帰省して母親に麻布を縫ってもらう

願生寺の御遠忌法要に参加してそのまま妙高から新潟を北上して実家へ向かいます(10/24.日曜日)


途中の栄PAで定番の三条ラーメンを昼ごはんに食べながら、、、本当は高速を降りて燕市の杭州飯店☆に行きたかったが帰路を急ぐので我慢


ロールで買っておいた麻布60枚分

上下の竹を通す部分の折り返して縫う作業を前回から新潟の母親にお願いしています。
今回も持ち込みました。

縫製の前段階として
①、ロールの麻布を裁断する
②、裁断面がほつれないように木工用ボンドで糊付けする
60枚分を裁断して糊付け、実家の和室を作業場に変えて作業開始。
そんなに大量にしたことがなかったので、どのぐらい時間がかかるか未知数ですが頑張ります。
作業台を母親が用意してくれていた、有り難いです。。。


60枚、裁断完了。作業時間は4時間弱、いつもと違う場所での作業なので環境作りからなので思ったより時間がかかる

2晩かかって糊付け作業を終わらせました汗
小皿忘れてきたので、亡きじーちゃんが晩酌につかっていた愛用の小皿を借りて作業

用意した木工用ボンド2本半を使った、、、
ここまで2日弱、あとはボンドを乾かして縫製を母親に託して帰れます。



折りのサイズを計って


まち張りで止めて


ロックミシンで縫製
五泉のニットの内職で子ども二人を育てた腕前は現役です。


1日もかからずに60枚縫製完成してくれました驚
有り難いです。


帰るまでに終わるとは思わなかったので、何か贈りたくなって、母親の好きな物を考えたけれど浮かばず汗
終わったと連絡もらった時間がケーキ屋さんとかも閉まった時間だったので、
ウオロク(新潟の超大型スーパー)で花束を買って帰ったら喜んでくれました。
お寿司が好きというのは知ってたけれど、母親の好きな物を知らないというのは焦りました。
改めて聞いてみると、、、特にない、そうです、なんじゃそら。
山菜やゼンマイ採るのが好きだったけれど、原発事故から採っていないと言います。
毎年の楽しみであった山菜、ゼンマイ採りが奪われてしまったのは悲しい話。

後日、玄関に飾った写真を送ってくれました。


キューブに麻布60枚を乗せて愛知へ帰ることに。
いい絵にしたいと思いました。



  


Posted by 小林憲明 at 19:28「ダキシメルオモイ」日記ふるさと

2021年11月12日

高田、最賢寺さまから会津墓地へ

妙高の願生寺さまに絵を届けて翌日の御遠忌法要にも参加させていただくことに(10/24)
せっかく上越に来てるのだからと、3年前の高田別院、御遠忌法要のとき高田プラモ部を開催した高田市内にある最賢寺の金子光洋さんを訪ねました。
三年前の高田御遠忌法要の記事はこちら

金子さんとは福島県ではじめてモデルになってもらった二本松市の眞行寺の佐々木さん繋がりで知り合いました。
上越地区の浄土真宗大谷派の僧侶の方々、東日本大震災から毎年、福島に暮らす子どもたちを妙高に保養に招待したり、福島や被災地へオモイを寄せている方々がいて、その繋がりの中で金子さんとも知り合いました。

3年ぶりでしたが、そんなブランクを感じることない不思議な感じがします。
夕方に訪ねてお寺に泊めていただきました。


翌朝
お内仏に飾るお仏飯を作らせていただきました。
金子家に代々伝わる木製のお仏飯を作る器具でひとつひとつ作っていきます。
蓮の実に見立てているとのこと
ご飯を押す木の断面が丸かったり、まっすぐにするのもとても難しかった汗
毎朝、炊き立てのご飯をお仏飯にしてお供えして、
それぞれの御下がりをお昼にいただくそうです。



金子さんのお手本はどれでしょうか?
木製の器具に歴史を感じました。
このあと本堂にそれぞれお供えさせていただきました。
お供えするときのお辞儀の仕方、手を合わせお辞儀したまましゃがんでまた立ち上がる、スクワットみたいな感じの所作、これを毎朝するのは何気にいい運動になります。
そのあとお朝事に同席させていただきました。



子どもたちは少年野球の練習に出かけていきました。
お見送りしてから願生寺の御遠忌法要へ

行く前に高田にある会津墓地へ



高田市、金谷山の裏参道にある会津墓地へ行き手を合わせます。
戊辰戦争、生き残った会津藩士1700人、高田藩あずかりとなり、約一年間、高田にあるたくさんの寺院で収容され、白米と漬物だけで自炊して謹慎生活を命じられる、その中で先の見えない謹慎生活、栄養失調などで70名が亡くなりました。会津出身で高田で眼科医をしていた田村医師が私財を投じて、それら会津藩士の墓地を整備したのが会津墓地のはじまりだそうです。ふるさとに帰ることが叶わずに遠方の地で亡くなる、無念だったと思います。
三年ぶりに訪れ手を合わせました。

久しぶりに上越の金子さん家族とお会いして
楽しい時間をいただきました。
コロナ禍でなかなか人と会う機会が減りましたが
三年ぶりということもあって子どもさんたちの成長を感じられて
嬉しかったです。
ありがとうございました。
  


Posted by 小林憲明 at 08:11

2021年11月06日

新潟県妙高にある願生寺さまでの御遠忌法要



七月に新しい家族が増えたというので改めて七月に取材させていただきました。
その作品を今回の御遠忌法要に間に合わせました。
麻布への下地を塗る流れ



日曜日に御遠忌法要があるとのこと、前日の土曜日の朝になんとか完成、持ち込むことに

出かける時、車のバッテリーが上がって載せ替え作業をイエローハットでして昼過ぎにようやく愛知県を出発
新潟県妙高市の願生寺(がんしょうじ)に着いたのは午後6時すぎ

50年に一度の法要、ギリギリまで準備作業されていました。


平出家のダキシメルオモイ、無事お届けいたしました。
喜んでいただけてよかった。
左の絵は3年前の平出家のダキシメルオモイ
今回は飼っている犬も入れて描かせていただきました。
翌日の御遠忌法要も参加させていただきますので、願生寺から高田市内の最賢寺(さいけんじ)の金子さんのお寺へ伺いました。
3年前、高田別院の御遠忌法要のときに、取材させていただいて、子どもの名前の由来を聞くのをうっかり忘れていて汗
改めて聞きに伺い、そのままお寺に泊めていただきました。
3年前はプラモを造りながら鍋をつつきました、高田プラモ部、懐かしいです。


翌日、妙高市の願生寺での
50年に一度の御遠忌法要
願生寺ご門徒さんたちやご縁がある方々が集いました


境内にご住職のダキシメルオモイも飾らせていただきました。


紅白の目出度い仏花(ぶっか)
打掛(うちかけ)も綺麗な模様です


コロナ禍ということ法要も午前中だけで執り行われました
願生寺の歴史を研究している太田先生による願生寺の歴史をお話いただきました。
お寺の歴史が800年、開祖は武蔵の国の御家人、津戸三郎為守(つもともさぶろうためもり)、
法然上人から釈尊願(しゃくそんがん)という法名をいただいたそうです。
それから大海の一滴で800年の節目節目で大切な役割を果たしてきたそうです。


江戸時代、願生寺、安心事件が起こりお寺御取り潰し、住職は長野に、末寺は浄土真宗大谷派から佛光寺派に改宗、昭和の時代になってご門徒さんたちが門主に働きかけて願生寺が復活出来たそうです。

本来なら新井別院が願生寺があった場所
新井別院、右側にある納骨堂、そこにある阿弥陀仏が本来の願生寺の御本尊だと言うことです。
3年前、新井別院の御遠忌法要、納骨堂でダキシメルオモイを開催しているとき、願生寺さまの坊守さまと息子さん(稚児行列に参加されていた)とお会いしたのがご縁のはじまりというのも不思議な感じがします。

本堂に飾られていた室町時代の水墨画
太田先生によると本山から贈られた物ではないかと
戦国時代、石山合戦の折、当時の願生寺住職が討ち死にしたこと、その功績?に対して贈られた物ではないかと、、、

歴史が深いお寺、願生寺


3年前の平出家のダキシメルオモイ(左手)と今回描かせていただいたダキシメルオモイ
奥さまが独身の頃から飼われている犬を御住職が抱き、奥さまと旦那さまにしっかりと手を握る長男、奥さまに抱かれながら兄の頭に手を寄せる次男、若く亡くなった飼い主の変わりに引き取った白い犬は家族を守るように寄り添います。

新井別院でいただいたご縁から生まれた2枚のダキシメルオモイ

命との向き合い方、学ぶことがたくさんありました。ありがとうございます。

三年前の新井別院、御遠忌法要での展示風景はこちら


  


Posted by 小林憲明 at 19:28制作歴史